第214回 忘我の作業

幼少の頃、我が家は薪で沸かす五右衛門風呂でした。お風呂の火の番は祖父か父親か私。ガスにオール電化、炎と向き合うことが日常からイベントになった今だからこそなのでしょうか。冬の寒空の下、パチパチとはぜる火の音を聞きながら、ときに焼き芋なんかを焼きながら風呂釜に向かう時間は楽しい思い出として心に残っています。

太平洋に面した港町でありながら、山に囲まれる美波町。備長炭に使われるウバメガシがそこいらに自生する、言うならば「薪に囲まれた環境」でもあります。ならば!ということで、移住に合わせ、薪ストーブに挑戦することにしました。
伐採した雑木があるとの情報に車を走らせ、チェーンソーで適当なサイズに玉切りし、運び、延々と薪割りし、1年後の完成に向けて乾かす。
薪
薪ストーブの炎を見つめながらブランデーを傾ける。そんなシーンなど夢のまた夢。 切りたての生木はずっしりと重く、チェーンソー操作には無駄な力ばかりが入り、それは運動不足には堪える肉体労働。そして慣れぬ素人作業にヒヤリ、ヒヤリの繰り返し。何より膨大な手間と時間を必要とするものでした。
軟弱男の早速の結論。
「薪に囲まれた環境でも暖は電気やガスがリーズナブル」です。
ガスや電気が安定的に安価に供給される現代の有りがたさを実感、感謝せずにはいられません。

しかし、農作業に薪割り。自らの労苦で暮らしの糧を得る作業が持つ力があるように思えてなりません。同じ作業を延々と繰り返した先で疲れ果て、無心になり、損得や合理性などということから解き放たれた時に訪れる忘我の時間。恍惚の時間。
またひとつ田舎の楽しみが増えました。