第17回 北京オリンピック 私的NO.1シーン

急に秋の気配。オリンピックが終わったせいでしょうか?今年の秋は妙に明確にやってきた気がします。

今回のオリンピックも感動あり、驚愕の記録あり、スポーツとは程遠い話題もありと、盛りだくさんでした。基本的にスポーツ好きな私ですので、人並みにはオリンピックも観戦し、応援し、興奮し、喜び、悲しみ、楽しませて頂きました。オリンピック観戦はやはり楽しいものです。
ただ、どうにも心の中にしっくり来ない部分が残ります。この違和感は国際的なスポーツイベント、そしてオリンピックで最も感じます。オリンピックが終わる度に「この違和感が無くなるとオリンピックがもっと楽しいだろうな。」と思うのですが、今回のオリンピックでも解消出来ませんでした。それは“競技そのものの良さ”とは別の“国家”や“ナショナリズム”というものの存在と、人間の能力のほんの一部分でしかないスポーツの、しかもスポーツの中でもほんの一部の種目の祭典でしかないイベントに世界中が巨額を投じ、一喜一憂し、勝者をとってつけたように褒め称え、敗北には戦犯捜しをし・・・。そしてそんな面を嫌だと思いながらも、自分の心の中にも同じ部分がある。そのことにどうしても心の中で折り合いがつかないのです。
もっとシンプルにオリンピックを楽しめるか。
次のオリンピックは4年後。私の課題です。

閑話休題。
私にとっての北京オリンピックNO1のシーンをあげると、間違いなく男子400Mリレーで銅メダルを獲得した4選手の競技直後のインタビューです。
アメリカの予選敗退などラッキーな面もあったでしょうが、400Mリレーでのメダル獲得はとてつもなくすごいこと。それをやってのけた選手(末續選手だったと思います)から「苦しい時代にも、世界に通用しないと言われた時代にも、戦ってきてくれた先輩たちのおかげで、自分たちが銅メダルの場面に立たせてもらえたと思っています。(吉田要約)」というような言葉を聞いたとき、心が震えました。これほどの偉業を自らの努力で達成した人が、全ては独力ではなく、単独では成り立っておらず、全ては繋がっている事に気づき、そして素直に歴史や先達に感謝しているその心に涙が出ました。

もし吉田基晴が将来何かで偉業を達成したとしたら、その時に歴史や数多くの先達、そして直接的に接しなかったものに対して感謝出来るか。
偉業達成は何年後?私の課題です。