第37回 太宰生誕100周年に想う

私は太宰治が大好きです。
私は(どんなに酔っぱらっていようが)眠る前には必ず読書をする習慣がありますが、その際に手に取る本の5割は太宰の作品が占めている感じです。
太宰というと「人間失格」や「ヴィヨンの妻」など、陰鬱であったり退廃的な作品の印象が強いですが、私は楽しむ読み物としても是非お奨めしたいのです。「畜犬談」なんか読んだことありますか?思わず吹き出してしまいます。活字で、小説で声を出して笑ってしまう作品なんて、太宰しか書けないのじゃないかしら?と思ったりします。(浅学無知ゆえ、そんな文学が他にもあれば是非教えていただきたく)

さて、今年は太宰生誕100周年ということで、様々なイベントが開かれたり、複数の作品が映画化されたりと、かなり太宰にスポットが当たっていますね。
自分の好きなものに光が当たることって嬉しくもあるのですが、自称“太宰の最大の理解者”にとっては、そういうニュースに触れる度にどことなく不安な焦燥感に駆られます。最大の理解者は生誕80年にも生誕98年にも太宰を愛していたのです!
映画も気にはなるもののおそらく見ないと思います。最大の理解者にとっては、監督や脚本家など他人に解釈されて映像化された太宰観(ダダイズムならぬダザイズム?)はきっと受け入れられない、という先入観があるのです。
認めましょう。最大の理解者は太宰に対してはケチなのです(笑 。

太宰作品や彼の生き方に対しては好き嫌いがあり、文学としての評価も分かれます。が、執筆後、何十年経っても愛される作品というだけでそれはきっと本物なのでしょう。今私たちが事業で生み出しているものを文学作品と同列に語っても仕方ないでしょうが、安出来・早出来がはびこる時代に、やはり作り手に身をおく者として本物作りを目指していきたいものです。